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【書評】石川淳『紫苑物語』



ずいぶん前にTwitterのフォロワーさんに勧められて買った一冊。
長らく「紫苑物語」のみ何度も読み返していたが、今回ようやく「八幡縁起」と「修羅」を読んだ。
まず心惹かれたのはなんといっても文体だった。私は硬めの文体を好むので、石川淳の文体はその点理想的であった。
その文体は一貫してこの作品集に貫かれているので、さながら上質な古典文学の趣が感じられる。
中でも「八幡縁起」は日本神話を専攻していた身としては特筆すべき作品で、まつろわぬ原初の神と王権やその後の権力者が奉ずる八幡神との対比が見事に描かれている。

従者をしりぞけて、貞光ひとり待つところに、岩穴の闇にゆらいで、白けむりを吹きつけるように、白髪の老人、せい高く立ちあらわれて、語気あらくいいかけるには、
「たかが椀皿の細工と、ほざきおったな。なんじ、われらの大神につかえる道をわすれたか。先祖代代、われらは木をけずって椀皿をつくる。その手のはたらきにこそ、大神のこころはこもるぞ。椀皿は旧に依ってここより里にながれ出て、ひとびとの日々の重宝となる。みこころ、また里にもおこなわれるとおもえ。この道をはずれて、われら一類いずこにさかえるというぞ。なんじ、もはや大神を拝さぬのか。」
貞光、ひるまず、
「げに、われらの大神につかえるためにこそ、みこころを世にひろくおこなおうとて、おれは岩屋を出て武者とはなったぞ。大神につかえる道、おれもおこたりはせぬ。」
「なにをもって、つかえるというか。」
「武をもって。」
「武をもってつかえるは、われらの大神ではない。」
貞光、いぶかしげに、
「異なことをきくものじゃな。八幡といえば、武の神ではないか。これもとより、むかしながらのわれらの大神。」
老人、かぶりをふって、
「なに、八幡。知らぬ。いずれの神じゃ。われらの大神には、もとよりおん名は無いものを。」

ここでいう大神とは木製の椀皿を作る職能民であった者たちの奉じていた神であったが、彼らは里とは一線を置き、さながら(時代は大きく下るが)江戸時代における木地師のようであった。(江戸時代の木地師をして柳田国男は「山人」と称したが、学術的に云えばこれは誤りであったと大学の講義で聴いたのを覚えている。)
それらの職能民が奉じる神と権力者が奉じる神との対比、そしてその神々を火をもって焼き払う高師直という構図は新たな神話と歴史の創造と云ってもいい。

紫苑物語もまた炎上オチで終わるが、どうやらこの石川淳という作家は炎にカタルシスを感じているらしい。というよりは「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」ともどもエロスとタナトスに主眼を置いているように思われる。そこで滅びゆくものは古い歴史であり、あとには人智を超えたもの(「紫苑物語」の場合は自然、「修羅」の場合は一休に象徴される仏)だけが残るというパターンが繰り返される。
その消滅と再生にこそ石川淳が理想とする世界があるように思われてならない。

また「紫苑物語」の千草や「修羅」の胡摩に象徴されるように、石川淳の世界において女は性の対象であると同時に男をたぶらかし、破滅に追いやる魔性の存在でもある。それは一見ありふれた女性像のようにも思えるし、一見して彼の作品は性と暴力に満ちあふれているが、美しい文体がそれを低俗さから新たな神話へと昇華させている。
そこに安っぽい感傷は一切なく、ただただ巨視的な視点をもって人の業を著述していくスタンスは、芥川の「地獄変」や「蜘蛛の糸」をも想起させる。
いや、芥川の方がより人の業というものに寄り添っているのを感じられる分、石川淳の書き方は血も涙もないと云った方がいいかもしれない。少なくとも私は読んでいてそう感じた。よりクールなのだ。

私の尊敬するアマチュアの小説家にダークール(ダークでクール)な文体を理想とする書き手さんがいたが、彼女にはぜひ石川淳を読んでいただきたい。もうつながりも途絶えてしまったので、連絡を取るすべはないのだが、彼女がいつの日か石川淳を手に取る日が来ることを願ってやまない。
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夕星桔梗

Author:夕星桔梗
元日本古代史ゼミ所属。作家志望のアマチュア物書き。

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