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蛇神にまつわる諸問題 参



新作オリジナル小説のネタを求めて図書館から借りてきた本の中に肥後和男「八岐の大蛇(抄)」という論文が掲載されていたので読んでみたところ、興味深い説がいくつかあったのでこちらにまとめておくことにする。
最も注目すべきは、やはりスサノヲ=ヤマタノヲロチという関係がこの論文でも明記されていることだった。以下引用してみると、

かくて八坂神も本来は八尺の神として蛇神を祭祀せるものに外ならなかったことが考えられたのであり、これまた八岐の大蛇的性格であったことを示し、その八岐ということが八尺ということと言語上の心理的聯関あることは想わしむるのである。


素戔嗚尊と八岐大蛇とが本来同一の存在であるという解釈は日本書紀纂疏などに始原するのではあるまいか。「此一段の因縁、神道不測の妙用より出づと雖も、其の理に至つては、則、仏教により解説すべし。夫れ大蛇は無明の体也。根本無明といふは是不覚の一念なり。転じて八識と為る。八識各々能変所変あり。故名けて八岐大蛇と曰ふ。素戔嗚尊、八大罪有り。其能作は心に在り。所作は事に在り。能・所を合わせて首尾各八の大蛇となる者也。八箇少女は是れ八正道なり。無明の蔽ふ所と為り其の智を失ふ。是れ大蛇のために呑まるる八女也。山河大地、明暗色空は皆無明の所変第八識の相分なり。故に松栢脊に生ずと曰ふ。酒を飲んで酔睡すとは味欲に耽着して心身を忘るる也。進雄尊一たび少女蛇のために呑まると聞き、忽ち悲心を起し、其苦を救はんと欲す。是れ則悲増菩薩の心也。是より次第に増進し、漸く四十二品の塵労を断ず。故に其蛇を寸斬すと曰ふ。頭より尾に至り最後即一宝剣を得たり。是根本智の喩なり。蛇尾剣有るは無明即法性なり。剣を以て剣を得るは、始覚本覚の義也。素戔、神に至る也」とのべている。これは固より仏教理論を以て説明するものであるが、その根本にあるものは古伝承の精神史的解釈であって、これを人間自覚成立の過程と見るものである。従って大蛇と神明とは結局その根源に於いて同一であり、神が自己の中にある無明を機縁とし、それを克服することによって神明を成就するというものである。


換言すれば素戔嗚尊は先ず八岐大蛇として、その姿を示されたであろうということである。この神の名義がスサブと形容される恐るべき威力にあったとすれば、その威力は具象的には先ず蛇神の姿に於いて示されたであろう。それが軈(やが)て人間的自覚の発達に伴って人格的形姿をすすめて来てついに素戔嗚尊として独立するに至ったと思う。

前回の記事から随分と間が空いてしまったが、以前の記事から鑑みてみてもこの説は妥当であろう。スサノヲ=ヤマタノヲロチという説は定説であると見ていい。
なお、この論文の冒頭には主に滋賀県の藁で蛇をかたどって五穀豊穣を祈願する祭りの事例が多数挙げられているが、残念ながら防疫に関する祈願のものは見当たらなかった。防疫と蛇という関係性をどう説明づければいいのか、未だ決定的な手がかりは得られていないが、今後とも文献調査を続けていくつもりである。
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夕星桔梗

Author:夕星桔梗
元日本古代史ゼミ所属。作家志望のアマチュア物書き。

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