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【書評】澤田瞳子『満つる月の如し』



『日輪の賦』がとても良かったので地元の公共図書館にたまたまあったのを手に取った一冊。著者の専攻が日本古代史だったというだけあって、時代考証の安定感と平安時代のリアリティ溢れる空気感、難解な仏教用語を織り交ぜつつ、エンタメ小説としての勢いを失わない良質な歴史小説であった。
登場人物たちも個性豊かで彼らの悲喜こもごもが際立つ描写が特に上手い。まるで時代劇を見ているような臨場感があった。

あの夜、長い黒髪をうねらせ、恐怖と悲しみに顔を強張らせながらも、必死に敦明親王を諫めようとした中務の姿が、再び脳裏に甦る。
 彼女の懸命な言葉は、親王には姉とのそれとも、母とのそれとも等しい重みがあったはずである。だがそれを払いのけ、背をむけずにおられいないまた、愚かな男の性なのだろう。
なぜ、中務はあれほどの敦明を信じられるのであろう。生きとし生けるもの皆をひたすらに慈しむ如来の如き慈悲を彼女は有しているのだろうか。
 いや、そんなはずはない。畢竟、人は己の欲望に引きずられる浅はかな存在だ。他人の身を案じていたとて、手ひどい裏切りに遭えばすぐに態度を変じ、保身のためであれば、それが誰であっても欺いて憚らない。それがこの世のならいではないか。
 自分が敦明の依頼を無視し続ければ、彼は荒れ狂い、本当に道光寺に日をかけるかもしれない。そうだ、親王が狂気とも取れる振る舞いを見せたとき、彼女はどうするのだろう。絶望するのか、それともなお彼を信じ、手を差し伸べるのか。
 彼女の顔にそのとき浮かぶのは、あの如来のそれとも見まごう慈悲相か、あるいは裏切られた怒りに狂う羅刹相か。
 見たい――。もし中務が彼に踏みつけにされてもなお、あの深い憂いに満ちた慈悲の相を消さぬのであれば。自分はひょっとしたらそこに、円満具足なること満つる月の如き、御仏の姿を見出せるのかもしれない。
 そう気づいた瞬間、敦明親王を陥れようとする道雅への反感が、かき消すように失せた。絶望の淵にたったときの中務の姿を見るためなら、どんなことでも協力してやるとすら思った。


定朝の中務への想いは半ば芥川の『地獄変』を彷彿とさせて、芸術家というのはたとえ間接的にではあっても人を殺めるほどの狂気を抱いてこそこの世に二つとない作品を作り上げることができるのだろうか、と思った。そういう意味では本作は非常に芸術的な作品と云えるかもしれない。
そしてこの本の根本をなすのは定朝と隆範の出会いと別離だろう。定朝の墓に隆範の詠んだ「今ぞこれ 雲間を行かんかりがねの 直ぐなる道を照らす月かな」という歌が書かれた料紙が手向けられていたというのは、なんとも絶妙な余韻を残して美しい。
作者はよくこれほどの作品を書き上げたものだと驚嘆せずにはいられない。久しぶりに現代の作家で新刊が楽しみな書き手に出会えた興奮が未だ冷めやらない。

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夕星桔梗

Author:夕星桔梗
元日本古代史ゼミ所属。作家志望のアマチュア物書き。

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