スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【書評】コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』



終末SFを読みたいと思っていたら、たまたま読書メーターで読友さんが感想を書いていらっしゃったので気になって図書館で借りた一冊。
今年出会った本の中でもベスト作と云えるほどの出来映えだった。
(生憎と新刊の本はあまり読まないタイプなので今年発売された本はほとんど読んでいないが)

内容としては、終末を迎えた世界で父と息子が南を目指して旅をする、という何ともシンプルな話なのだが、淡々としていながらも終始美しい文体と物語の随所にちりばめられた警句、そして「火を運ぶ」というキーワードに魅せられる作品だ。

中でも印象的なのは次の句。

すべての記憶はもとのものに改竄を加えるものだと彼は思った。例のゲームと同じだ。ある言葉を次々に伝えていくゲーム。だから控えたほうがいい。憶い出すことで加えた変更は事実と合致しようがしまいが現実性を持つからだ。

結局この小説では父である「彼」の妻、つまり「少年」の母については詳しく語られることなく物語が幕を閉じる。しかしそれこそが「彼」の思い抱く妻への想いのすべてであり、それは断片的な記憶としてしか想起されない。死者を語る「彼」はこうして自らに枷をつけてしまい、彼らの記憶に耽溺することを許さないのだ。
あるいは「彼」は記憶から解き放たれようとして死んでいった、と捉えることも可能かもしれない。
その対比として記憶をつなぐもの、つまり「火を運ぶ者」としての少年の姿がある……と考えられないだろうか。

もちろん「火を運ぶ」ということはそう一義的に捉えられる語ではない。
私は読み終えたときには少年の純粋さがすなわち人類の希望であり、彼が遺されたからこそ最後の一文の描写につながっていくと考えた。
しかし「火を運」んでいたのは主人公の親子だけではない。
この物語には終盤に登場する人物とは別にもうひとり「善き人」が現れる。
それがイーライと名乗る老人だ。彼の台詞に次のような一文がある。

神さまはいない、そしてわしらはいない神さまの預言者なんだ。

余談だが、私は映画版「屍者の帝国」を観て、そこに全く何らかの宗教性を見出すことができなかったのを残念に思った。カラマーゾフは僧侶であったし、大里化学の研究所の奥には僧侶の屍があったものの、絵としてのインパクトを感じるばかりで、死者というものを扱う際に生まれてくるはずの宗教的意識が全く欠落していたと感じた。
そこが現代の日本人らしいといえばらしいのだが(原作は未読なので大した口はきけたものではないのは承知の上で)、一方、この『ザ・ロード』では世界が滅亡しかけようとしている間際ですら神のことが話題に上る。
登場人物たちは神の不在を説きながらも、自らが神話の登場人物となっていることに気づかない。
そして出てくるのがこの台詞なのだ。よほど作者の深い意図が込められた一文だと云えよう。
ある意味神からの視点が入った一文とも取れるが、このイーライは日本で云うところの来訪神のような位置づけにも思われる。
(もちろんここで云う神とは一神教の神のことだが)

それから私が気に入ったのは次の文章だった。

それから長い年月を経て彼は図書館の焼け焦げた廃墟の中に立ち水溜まりに浸かっている黒い書物の数々を眺めた。書架はみんなひっくり返されていた。何千列にも並んでいた嘘に対する憤怒。彼は一冊手にとり水を吸って膨らんだ重いページを繰った。彼はどんな小さなものの価値も来たるべき世界に基礎を置いていることを思ってみたことがなかった。彼は驚かされた。これらのものが占めていた空間自体が一つの期待であったことに。彼は本をその場に落とし最後にもう一度周囲を見まわしてから冷たい灰色の光の中へ出ていった。

ここにも作者から発せられた強いメッセージ性を感じる。おそらくそれは本というメディアに対する厚い信頼と、地球が滅亡してもなお遺り続ける場所であってほしいと願う気持ちが結晶化したものなのだろう。本好きとしてはこういう文章があるとぐっと物語に引き込まれてしまう。
この記憶は断片的なもので、夢なのか現実なのかも判別しがたい。それでも敢えて言葉を割いたということに意義があると感じた。

これらの引用からも見て取れるように、この小説のベースとなっているのは、おそらく人類への願いや祈りというものなのだろう。
いかなる状況にあっても希望の火を絶やさずに生きていこうとする親子と、ひいては人類全体への祈りがベースとなっているこの物語は、それそのものがひとつの希望なのだと思う。
スポンサーサイト

屍者の帝国 付随メモ

むしろこっちが本題かもしれない、という映画版「屍者の帝国」を鑑賞して考えたことメモ。
映画に関係することだったりしないことだったり。


・魂が欠如した存在が魂を求めるSF作品といえば攻殻機動隊なども筆頭に挙げられるけども、では魂だけの存在が肉体を語る、あるいは肉体と魂を持ちながらもそれらが乖離している人間の内面性に踏み込んだ作品を作ることは可能かどうか。

我々は(少なくとも健康であるならば)普段肉体というものを意識しない。なぜならば肉体というものは病や怪我によって損なわれた場合にのみ意識の俎上に登るものだから。
あるいはセックスや運動や肉体労働という肉体的体験でもなければ、普段意識する人は少ないはず。
肉体と精神が乖離している人間、というのはたとえば私のように精神疾患を抱えている人間は自分の精神状態ばかりに目が行きがち。(というと肉体的表現のように思えるけども慣用句という冗談)というか日常生活の九割を精神に支配されている。
あるいはPSYCHO-PASSなどは人間の精神状態を数値化した世界、というある意味精神に重きを置いたSF作品に仕上がっているので、再度見直すのもいいかも……?
最近だとhttp://www.rbbtoday.com/article/2015/10/30/136638.htmlのニュースが気になるところ。

・古代中国SFがそろそろあってもいいのではないか
 いや既にあるのかもしれないけれど。ネタとしては面白いかな、と。
 読者として観客としてそういうものがあるなら読んでみたいし観てみたい。
 というか四大文明SFアンソロとかあったらください。

・うなじに異物を差し込む行為
攻殻機動隊でももはやおなじみのアレ。やはり首というのは頭に近いこともあってか、映像や画像(文字情報として受け取るもの含む)としてのインパクト性もあるためか、うなじというのは魂にとって重要なポイントなのかもしれない。

・目に見えない魂を緑の光で蛍火のように描くということ
これはいかにも日本っぽい映像表現だなぁと感じた。蛍が人魂にたとえられるようになった例はいつ頃からあるんだろう? 万葉集とかにすでに見られる気がする、という予想。


2015.11.21 追記 朝になってみて冷静に考えたこと。
・うなじの件
うなじに打ち込むっていうのはおそらく脊髄が関係しているのかなぁと思った。

・死者(というか死体)を明確に描いた文学作品として真っ先に浮かぶのは大江健三郎の「死者の奢り」。影響関係があるのかどうかは『屍者の帝国』(原作)を読んでいないので現時点で不明。とはいえ、あれほど克明に死体とそれに向き合う人間の姿を描いた作品は、死者を死体という形で極めて物質的に扱っていることから考えても珍しいのではないか。

以下、「死者の奢り」の冒頭部分の引用。

 死者たちは、褐色色の液に浸って、腕を絡みあい、頭を押しつけあって、ぎっしり浮かび、また半ば沈みかかっている。彼らは淡い褐色の柔軟な皮膚に包まれて、堅固な、馴じみにくい独立感を持ち、おのおの自分の内部に向かって凝縮しながら、しかし執拗に体をすりつけあっている。彼らの体は殆ど認めることができないほどかすかに浮腫を持ち、それが彼らの瞼を硬く閉じた顔を豊かにしている。揮発性の臭気が激しく立ちのぼり、閉ざされた部屋の空気を濃密にする。あらゆる音の響きは、粘つく空気にまといつかれて、重おもしくなり、量感に充ちる。
 死者たちは、厚ぼったく重い声で囁きつづけ、それらの数かずの声は交じりあって聞きとりにくい。時どき、ひっそりとして、彼らの全てが黙りこみ、それからただちに、ざわめきが回復する。ざわめきは苛立たしい緩慢さで盛り上がり、低まり、また急にひっそりする。死者たちの一人が、ゆっくり体を回転させ、肩から易之深みへ沈みこんで行く。硬直した腕だけが暫く液の表面から差し出されており、それから再び彼は静かに浮かびあがって来る。

【感想】屍者の帝国【一周目】

屍者の帝国

※鑑賞時の時点で原作は未読
※ネタバレを含みます




正直なところ、観ていてとても疲れる映画だった。
と云ったらもうちょっと他に云うことはないのか、と笑われるだろうか。
物語の筋書きを主人公とともに追う映画というよりは、アクションや映像(音楽含む)で魅せる映画だったのかなぁというのが端的な感想。
魅せるというよりは、まあ屍の群ればかりが目について気味が悪いと評した方がより一般的かもしれない。完全にゾンビ映画のノリになってしまっている。(と云ってもゾンビ映画を観たことはないのだけれど)

なぜなら話の筋を追っていく努力はエンディングとともに放棄せざるを得なかったから。
フライデーの語りとラストシーンのホームズとともに活躍するワトソンの姿はあまりに乖離しているうえに、魂の在処を求めて行動を共にし、セカイ系でいうところの「セカイよりあなたを選ぶ」という決断をしたワトソンはフライデーをあっけなく捨て去ってしまう。
ただし捨て去るという表現が正しいのかどうか、私には判断がつかない。
こちらのサイト(http://wakatake-topics.com/?p=2680)を参照したところ、

“端的に説明すれば、ワトソンは「真実を知るため(後述)」に自らの体である実験を行ったのですが、結果としてワトソンはそれまでの意思(≒記憶)を失ってしまいました。
一方、結末のシーンで微笑んでいたフライデーはいつしか意思(≒魂)を手に入れていて、原作小説的にはワトソンの失われた意思を探しにいきます。“

と書かれていた。

あまりにエンディングに重要な要素を詰め込みすぎてしまっていて、原作を知らない観客には意図が掴めなかったのでは、と思う。そもそもフライデーの魂を求めて旅をしたはずなのに、「いつしか(つまりいつの間にか)魂を手に入れているフライデー」というのは辻褄が合わない。あの旅は一体何だったのか、ということになってしまう。
こちらのサイト(http://jabuken.blog.fc2.com/blog-entry-912.html)を参照してみると、

それとも生きたまんまフランケンシュタイン博士のデータ消滅させて屍者になったよの意味?
→まあ、そういうことです。
正確にはビクターの手記を消滅させる為に=今回みたく悪いことに使うやつがいるからデータ残さず消す為に、自分の中にビクターの手記を入れて、屍者になりました。
フライデーは、あの書いてたメモが新しい記憶になって、新しい魂のフライデーになりました。エンドロール後に望遠鏡でのぞいてたフライデーは新しい魂のフライデー。新しい魂くれてありがとうワトソンと思ってるから、微笑んでる。

と書かれているのだけれど、これが事実だとすると、あのエンディングではますます意味が伝わらない。エンドロールの台詞と映像だけで物語ることは果たして正しかったのかどうか、と考えざるをえない。

強いて評価するとするなら、スチームパンクな世界観はよく表現されていた、と思うけども、映像化することでかえって伝わらなかったものもたくさんあったと感じた。原作と映画がそれぞれ異なる作品だというのなら、映画はそれ自体で物語が独立(つまり物語として辻褄が合っていて、それがきちんと原作未読の鑑賞者に伝わっている)し、完結しているべきだ。
共に鑑賞した彼氏が「この人たちはストーリーを作りたいんじゃなくて、映像を作りたかったんだろうな」と云っていたのが最もこの映画を的確に示していたと思う。
とはいえやはり原作を読んでみないと何とも云えないところが多いので、後日原作を読んでみることにしたい。

【テレビ番組鑑賞】歴史秘話ヒストリア あなたはボクの女神様! ~文豪・谷崎潤一郎と女たち~

あなたはボクの女神様!
~文豪・谷崎潤一郎と女たち~
●本放送 平成27年11月11日(水) 22:00~22:43 総合 全国
※再放送は未定です。
配役:谷崎潤一郎 役:相島一之  妻・松子 役:壇 蜜
エピソード1 悩める作家の”禁断の恋”
谷崎は義理の妹・せい子に魅了される(再現)
大正初期、新進の作家・谷崎潤一郎は失望と焦りのまっただ中にいました。華々しくデビューしたものの思うように小説が書けず、結婚も期待はずれ。そんなある日、妻の妹で10代半ばの少女・せい子が家にやってきます。自由奔放なせい子に、いつしか強くひかれていく谷崎。そして取った行動とは!?
 
エピソード2 あなた様こそ「芸術の女神」
関東大震災で家を失った谷崎は関西へ移住。そこで、一人の女性と運命的に出会います。大阪の老舗商家の妻・松子です。谷崎は自分自身もすでに既婚の身でありながら、きらめくようで気品あふれる松子の魅力のとりこに。人妻との許されぬ恋。そこから、あの名作が生まれます。
美しき人妻・松子との運命的な出会い(再現)
 
エピソード3 それでもボクは女性を書く!
松子たち姉妹をモデルとした小説「細雪」(再現)
松子と結婚し、その妹たちも引き取って一緒に暮らし始めた谷崎。しかし、昭和16年の太平洋戦争開戦とともに華やかだった暮らしは、みるみる失われてゆきました。谷崎は、美しい日本の女性たち、古き良き時代をとどめようと新たな作品を書き始めます…谷崎の最高傑作と称される長編「細雪」誕生秘話。
 
この回ゆかりの地は・・・

芦屋市谷崎潤一郎記念館
倚松庵(いしょうあん)

参考文献

「谷崎潤一郎の恋文」(千葉俊二 編 中央公論新社)
「痴人の愛」(谷崎潤一郎)
「春琴抄」(谷崎潤一郎)
「細雪」(谷崎潤一郎)



ええと……いち谷崎ファンとしていろいろツッコミ所満載というか、あまりこういう番組に仕立て上げて欲しくなかったなというのが正直なところなんですが、まあ有り体に云えば「予想通りのテンプレギャグ路線」で寒かったですね……。
壇蜜さんに否定的な印象を持っているわけではないのですが、彼女を松子夫人に起用する時点でお察しというか。
実はだいぶ観ようかどうか迷って、録画していたのを昨日観たのでした。

番組としては去年谷崎の書簡が発見された際に放映されたクローズアップ現代の谷崎特集の方がよほど誠意があったと感じました。(クロ現という番組の問題性は横に置いておいて)
松子夫人との関係が一面的にしか描かれていなかったことはとても残念でした。
谷崎を単なる官能小説家として評価し、それを世に広めることはもはやマスメディアや他のメディア媒体(漫画や小説、ゲームなど)の罪だと思うのです。
その判断は谷崎を愛する読者にゆだねられるべきことであって、それがあたかも常識であるかのように流布するのは作家にとっても不幸なことだと思います。
作家の活動の根幹にあるのは読者の存在です。それは作家が亡くなってからも変わりません。
作家の作品を後世にまで残していけるのは読者の存在あってこそなのです。
その読者に影響を与えかねないマスメディアがステレオタイプな見方をして作家を色物扱いしているのはどうなのかな、と思わざるを得ませんでした。
プロフィール

夕星桔梗

Author:夕星桔梗
元日本古代史ゼミ所属。作家志望のアマチュア物書き。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
twitter
Booklog
カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。