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【感想】川端康成『反橋 しぐれ たまゆら』

反橋・しぐれ・たまゆら (講談社文芸文庫)反橋・しぐれ・たまゆら (講談社文芸文庫)
(1992/09/03)
川端 康成

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「反橋」「しぐれ」「住吉」「隅田川」の四作は母恋の物語という体をなしている。これらの作品には巻末に丁寧な解説が収められているのでそちらに譲るとして、近代文学において母恋というテーマは著名な作家たちの間に共通するものであった。例えば谷崎潤一郎の「吉野葛」泉鏡花の「竜潭譚」など。もっとも日本文学において母恋といえば源氏物語であり、これを踏まえずして日本文学を語ることはできまい。実のところ私は断片的な形でしか読んでいないので、いずれは何らかの形で読みたいと思っているのだが。
川端の一連の四部作に話を戻すと、私の目に止まったのは「私」の背を母(「私」の実の母の妹、つまり義理の母)が琴の爪で掻くというシーンであった。

「かゆい、かゆい、もっと下、下」と私はむずがります。
「だめだめ、爪がない。お琴の爪で掻いて、お琴の爪で掻いて」
「いけません。そんなお琴の爪で」

実はこの「お琴の爪」というのは「私」の実の母のものであった。ここに私はある種のエロスを見出す。それはバタイユの云うところの禁忌の侵犯が象徴的に表現されているからであり、何より人間の身体の細部を捉える川端特有のエロティックな観察眼が光っているからである。
一連の物語に描かれた「私」と「母」の関係は、血が繋がっていながらも実の親子ではないという位置づけにあり、「私」は「母」をひとりの女として見ていることは明らかである。そこには単に母恋と呼ぶよりもある種の性的な欲望――私のいうところの「悪心」が看取される。
鏡花の「竜潭潭」が女人の幻想を描き、谷崎の「吉野葛」が母への慕情を描いているとするならば、川端の一連の作品に描かれた母恋はそれらとは明らかに異質な、もっと生々し質感を伴っている。


「たまゆら」
死者とは永遠の他者である。その永遠の他者である治子が形見として遺した三つの曲玉を巡る物語がこの「たまゆら」であり、「たまゆら」とは三つの曲玉が触れあって立てる音を指す。この「たまゆら」は治子にしか鳴らすことのできない音であり、彼女の死後、三つの曲玉は「私」と治子と付き合いのあった瀬田、そして彼女の妹の礼子に分けられてしまう。
この作品集に収められた作品群の多くは死を描くが、この「たまゆら」では曲玉が生者と死者をつなぐよすがであり、最終的にばらばらになった三つの曲玉は礼子の元へと集まる。話の筋としてはそう複雑ではないが、この曲玉にまつわる川端の描写はいっそ執拗と云っていい。

やわらかい緑のなかの八重桜の色がまたやわらかいので、私は曲玉をかざして、片目にあてると、片目をつぶった。曲玉を通して濠向うの木々を見るつもりだったらしい。ああ、きれいだと私は吐息した。手の指ほどの厚みのある、古代の翡翠を通して、向うの見えるわけはないのだが、曲玉そのものがすきとおって見えたのだ。
青碧色というのか、翠緑色というのか、思ったよりも緑の勝った青で、この世の色でないように美しい。玉そのものの色が外に逃げないで内にこもるという透明度で、曲玉のなかに深い色の世界があるようだ。夢の空であるか、夢の海であるか、しかし、あざやかな五月である。

そしてこの曲玉は悪夢を見せる。古代の産物である曲玉が夢を見せるというのは何とも象徴的で、古代人にとって夢とは神や仏と相通じる一種の手段でもあった。つまり夢には霊的な力があると信じられていたのである。川端がこれを意識しなかったはずはない。
結局悪夢を見せられた瀬田は礼子に曲玉を返すことを提案し、「私」もまた彼女に曲玉を返すことになった。柳田国男の「妹の力」は現代では批判される点も多々あるが、女と曲玉、そしてその曲玉のもつ呪力というモチーフは日本古代史を学んできた私にとって何とも魅力的に映るのだった。ある種、この作品は近代の神話とも云えるのかもしれない。
川端の幻想小説といえばまず「片腕」が挙げられるが、この「たまゆら」もそれに引けを取らない美しさを兼ね備えているように私は思う。

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【感想】蟲師 第三話 柔らかい角

雪の降り積もる音が好きだ。先月末、東京に雪が降り積もった時、朝から雪の降る音を聞いた。はらはらと降る雪の音は、南国育ちの私にとって物珍しく、それだけに心くすぐられるものなのだ。今回はそんな雪の降り積もる山里を舞台とし、“耳”と蟲をめぐって話が展開する。前回の“目”の話に続いて、人間の体と蟲という組み合わせは生理的嫌悪感を催すが、作者の意図はそれだけに留まらないのだろう。
そこには生命に対する畏怖、つまり命あるものの不思議さを観る者に提示するとともに、人間と自然との共生、人間と他の生物との共生のあり方を問いかけているように感じる。
おそらく第二話もこの第三話も描かれている蟲は寄生虫をベースとしている。寄生虫は現代以前の日本において人間にとっては身近な存在であったし、「かつての(と仮定される)日本」を舞台とする蟲師の世界で彼らの存在を描くことは筋が通っているように思う。
寄生虫はいないに越したことはない存在ではあるが、現代以前の日本人、あるいは当時の人間全般を考える上では欠くことのできない存在なのではないか。人とその他の生物が密接に関わっていた一つの事象としても、病という人間とは不可分な事象を考える上でも。

また蟲師とは何らかの形で蟲に関わった人々と接する役柄であり、普通の人間には見ることのできない蟲という対象に向き合うことから、ある種の呪術師と捉えることもできるだろう。ギンコが自身を蟲を呼ぶ体質と語っていたのも蟲師の特殊性を物語っているように思う。
去年の十二月私が通っている大学で「病と祓」というシンポジウムが催され、それを聴講したことがあるのだが、前近代の世界においては医術と呪術は不可分な関係にあったと聞いた。蟲師もまた呪術師と医者との間に位置しているように思えてならない。

さらに蟲師でギンコと対峙するのは第一話から第三話にかけてすべて子どもであったという点も見逃せない。普通の人間には見えない蟲に関わるのが子どもであるということは、「七つまでは神のうち」という言葉があるように、子どもの方が蟲と交わりやすいということなのだろうか。とはいえこれは第三話まで観た所感なので、今後変わっていってしまうかもしれないが。

【徒然】蟲師にいざなわれて

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最近観はじめたアニメ・蟲師に触発されて自然と触れ合いたくなり、近所の公園へ行ってきました。 冬なので木々の葉が落ちて寂しいかなと思ったのですが、梅の蕾が芽吹いていたり、水鏡に映る枝の影が美しかったり。冬は冬で良いものですね。

【感想】蟲師 第二話 瞼の光

改めて美しくも妖しい蟲師の世界に引き込まれるとともに、この世界観はどのように生み出されたのだろう、どうしたらこんな世界を描き出せるのだろうと考え込んでしまった。
蟲という存在の中に今を生きる人間が失ってしまったものがこめられているような気がして、おそらくそれは幻想に近いのだろうけども、どこか懐かしいっような心地になってしまうから不思議だ。
きっとその根本にあるのは生命そのものへの畏怖なのではないかな。科学では解明できない、もっとプリミティブな感情。縄文時代の土器を目にしたかのような、“自然への畏怖が形になったもの”への純粋な驚きというかある種の怖さというか。

この「瞼の光」には和ホラー的な要素も入っているのかな、という気がした。特に目玉に蟲が住んでいるという描写。蟲という得たいの知れないものへの恐れが伝わってきてよかったと思う。
ではこの蟲のモチーフの原形って何なんだろうと考えた時に、私は南方熊楠の粘菌を思い出した。
そして南方熊楠と粘菌について改めて調べてみようと思い、検索してみたところ以下のようなページに行き当たった。
南方熊楠と真正粘菌
もしも粘菌を蟲師で云うところの蟲に当てはめるならば、蟲師であるギンコはさながら南方熊楠の姿にも重なるのではないか。
私自身南方熊楠については以前ドキュメンタリー番組を観たり、『十二支考』の一部を読んだりした程度の知識しか持たないので確かなことは云えないが、粘菌に向ける南方熊楠のひたむきなまなざしは、ギンコの蟲に向けるそれと重複する部分があるように思うのだ。

このように蟲師はいくらでも自由に分析ができる佳作だと思う。
漫画の読書会やアニメの感想を話し合う場なんてあまり聞かないが、蟲師の場合はそういう場があればきっと楽しいだろう。
そういえば恩師が蟲師にまつわるディスカッションをネットで公開していたので、今後そちらを観た後でこちらにも感想を載せられればと思う。

【感想】蟲師 第一話 緑の座

最近「蟲師」が気になって遅ればせながら見始めました。
感想というか考察を書いていきたいと思います。

まず緑したたる、といおう言葉がぴったりな山々の描写に惹かれた。
森の奥にひっそりと佇む家、そこに住まう不思議な少年――この構図は物語の中ではよくあるものだけれど、そこにはある種の異界、云うならば山中他界とも呼ぶべき領域がある。
この種の物語、つまり旅人が山中にある異界へ入り込み、その土地に暮らす人間と超現実的な体験を共にするという話の構図は泉鏡花の「高野聖」を思わせる。
泉鏡花が好きな人間としては、そうした舞台設定を目にしただけで惹きつけられてしまうのだが、もう少し冷静にこの作品を見てみよう。
私は先に山中他界と称したが、これは不思議な少年・しんらの祖母が、亡くなった後も人と蟲との中間にある存在としてしんらの目付役をしていることからも窺える。つまり死者の霊が山中に留まっているのだ。

やがて物語は主人公の少年からその祖母へと主役が移る。
彼女が加わった蟲たちの宴に目を向けてみると、儀式という色合いが濃い。盃の光酒(こうき)を飲み干せば、生物としての法則を失い、蟲になってしまうという。
そこには黄泉戸喫(ヨモツヘグリ)のようなはたらき、つまり異界のモノをくちにすれば元の世界には戻れないという制約に共通するものがあるのではないか。
物語では蟲になったことで孫のしんらの目に見えるようになり、共に暮らせるようになった祖母の姿が描かれるが、そこには人ならぬものの住まう異界をさらに人里から遠ざけてしまうという結末につながる。
ゆえに人里ではしんらの噂が絶えてしまうのだ。
一見ハッピーエンドに見えるが、その実は人の世から隔たった異界をさらに閉ざされたものにしてしまうという一抹の恐ろしさを含んだ結末となっている。
つまりこの物語はギンコの異界(冥界)訪問譚となっているのである。
プロフィール

夕星桔梗

Author:夕星桔梗
元日本古代史ゼミ所属。作家志望のアマチュア物書き。

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