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蛇神にまつわる諸問題 弐

今日、斎藤英喜『『新しい「日本神話」の読み方 古事記 成長する神々』を読み終えて、簡単な書評( 斎藤英喜『新しい「日本神話」の読み方 古事記 成長する神々』 を書いたばかりだが、分量および問題性の都合でそこには書けなかった、スサノヲとヤマタノヲロチの問題についてまとめてみようと思う。

まず注目したいのは次のパラグラフだ。

ヤマタノヲロチが氾濫する川のイメージをもつことも指摘されてるが、それは水という恵みをもたらす川と、洪水によって人びとの生活を破壊してしまう川、という自然の威力がもつ二面性を抱え込んだ「自然神」の形象化と理解していいだろう(三浦佑之『古事記談義』)。
(…)『古事記』のヲロチ神話には、天上から来臨した新しい英雄神が、古い土着の水の精霊を超克するプロセスが読みとれよう。ヲロチ退治譚とは、水の精霊を祭ってきた出雲の首長が、高天の原から降ってきたあらたな英雄神に服属する神話ということになるのである(西郷信綱『古事記の世界』)

ここで思い出してほしいのは、蛇神にまつわる諸問題 で書いた「支配者としての神と、被支配者としての神の姿」だ。私の推測はこれで保証されたと云っていいだろう。

では被支配者としての神(=ヤマタノヲロチ)の姿はどのようなものだったのか。斎藤氏は次のように記している。

ヤマタノヲロチの姿を語るアシナヅチは「老父」と呼ばれていた。そこには、土地に伝わる古伝承を語る「古老」のイメージも見てとれる。ヲロチの姿をリアルに語るアシナヅチの言葉には、彼らが語り伝えてきた水蛇神の古伝承の断片を想定することもできよう。
ここからは、出雲の語り手たちが、自らが祭る神の姿を口で語り伝えたオーラルな現場が髣髴としてこないか。自分たちに恵みの水を与えつつ、祭りそこなえば水害という祟りをもたらす、恐ろしい水蛇神の伝承。それを語り伝えた出雲の語りの翁たち……。

こうして神話の古層を読み解いていこうとする斎藤氏の姿勢に、私は感動を覚えるのだ。

続いて斎藤氏は構造主義系の神話学が提唱した「怪物と英雄の両義性」について紹介している。以下、斎藤氏は小松和彦氏の『神々の精神史』から引用している。

スサノヲは山を枯らし、海や川を干上がらせる、凶暴な自然のイメージをもつ。その点は、氾濫する川、洪水という自然の脅威をあらわすヲロチにも共通する。つまり両者はともに「自然」の荒々しい力を体現していたのである。そのとき、高天の原の秩序を破壊して追放されたスサノヲにとって、出雲でのヲロチとの出会いは、じつは鏡に写ったもうひとりの自分との出会いでもあった。スサノヲがヲロチを退治することは、自分の中のもうひとりの自分を否定し、それを超克することを意味したのである。すなわち「英雄は、彼の出自、彼の過去、もう一つの彼の否定として、鬼などの怪物を退治する。退治することによって社会に迎えられ、英雄となる」

この説は、蛇と防疫 で追記した松村武雄氏の説とも大いに重なる部分がある。
またこのロジックで考えていくと、蛇神にまつわる諸問題 で紹介した禹と相柳もまたこうした構図の中で考えていくことができるのではないだろうか。

ようやくいくつもの事項が一つに結びついてきたように思う。これはひとえにここで紹介した諸氏の研究のたまものであり、私は彼らの説く論理の道に導かれているように感じる。未だに大蛇が防疫を祈願して祀られるのはなぜかという問いの明確な答えは出ないが、少しでもそのヒントに近づきつつあるのではないだろうか。
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斎藤英喜『新しい「日本神話」の読み方 古事記 成長する神々』

古事記 成長する神々―新しい「日本神話」の読み方古事記 成長する神々―新しい「日本神話」の読み方
(2010/03)
斎藤 英喜

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この本では神話学の視点から日本神話の古層に迫っていくというスタンスが貫かれており、読んでいて終始知的好奇心を刺激された。
中でも神話におけるシャーマニズムの問題については以前から関心があったので、斎藤先生の巧みな論理展開にぐいぐいと引き込まれてしまった。三浦佑之先生といい、私の好奇心を惹きつけてやまない先生方の論考はなぜこうも魅力的なのだろう。
たとえばのちにオホクニヌシとなるオホナムヂの神話における、地下世界での過酷な試練をクリアしていく物語は、「王」となるためのイニシエーションであり、その基底にあるのはシャーマンの成巫儀礼であると斎藤先生は説いている。
これはゼミ教授による大学の講義でも学んだことではあったが、他にもイザナキは黄泉つ国=他界での「死」のイニシエーションを経験し、あらたな存在へと変成するシャーマニックな性格をもっている、アマテラスは元々の戦うシャーマンとしての姿から皇祖神へと成長していく……などなど、シャーマニズムに視点を当てた神話分析は多岐にわたっている。
「シャーマニズムとは、神話生成の現場であったのだ」と斎藤先生が記しているように、神話が成立する過程においてシャーマニズムは多大な影響を及ぼしているのだろう。
これからもシャーマニズムに関する勉強を続けていきたいという思いを強くした次第だ。

また日本書紀との比較の中で古事記を分析していて、前者が中国思想を規範としたグローバル指向な史書であったのに対し、後者はローカル指向の立場から書かれた書である(ただし中国の陰陽思想を取り込みつつ、そこからローカルな神話を再構築したもの)という違いがあることを踏まえた論理展開でわかりやすかった。
さらに「地上世界の支配は、つねに異界からのバックアップを受けねばならない」とする異界と地上世界との関係性も明確に説かれており、異界に興味のある私にとって何となくファンタスティックに捉えられていた神話世界がきちんと定義づけられたことに感動を覚えた。

そして何より私がこの本で賛同したいのは、古事記=女性差別的とする視点に対する斎藤先生の論駁だ。

あらためて、「女性差別」という観点の成り立ちを考えてみると、その前提となっているのは、人間はすべて平等であるという近代思想であった。人間は男も女も平等だという近代的な価値観が出来上がるから、女性差別という批判が出てくるのだ。だとすれば、近代以前の八世紀=古代に作られた『古事記』の神話に、そうした近代的な価値観を押し付けて、差別的だと非難するんは片手落ちではないだろうか。あくまでも『古事記』は、古代に成り立った神話テキストなのだから。

一部の記紀神話関連の研究文献を読んでいて感じていた違和感は、まさしくこの問題に関わることだった。私もまた古代の女性観を現代的な視点から非難するのはいかがなものかと思っていたので、この文章を読んでやっと胸のつかえが取れたように感じた。

第三十三回 大宮 薪能@氷川神社




【演目】
金春流 素謡 翁
雅楽
火入れ式
解説 
宝生流 能 羽衣
和泉流 狂言 鐘の音
金春流 能 殺生石

友人に誘われて、大宮は氷川神社まで足を伸ばしてきました。薪能を観るのはこれが二回目。ちょうど一年ほど前の五月十五日、東京大薪能で土蜘蛛を観たのでした。その時は会場が広かった上に自由席だったので、遠くから観ることになってしまい、なかなか能本来の魅力を味わうことができなかったのです……。
しかし今回は佳い席で観ることができて僥倖でした。遅れて会場入りしたため、冒頭の「翁」は会場外から中継映像で観ることになってしまいましたが(´・ω・`)
しかし始まりこそ複雑な気分だったものの、「羽衣」が始まるとたちまち能の夢幻世界へと誘われました。「羽衣」は前から見てみたい作品の一つだったこともあり、また羽衣を纏った天人の舞姿のえもいわれぬ美しさに、心を文字通り奪われてしまいました。これが能の神髄だったのかと、観能三回目にして初めて能の魅力が心に沁みた気がします。
台詞も初めて能を観に行った二年前とは違って、するすると頭の中に入って響き、中でも「霓裳羽衣」という単語には思わず反応してしまいました。
霓裳羽衣といえば白居易の長恨歌に出てくるもので、唐の玄宗皇帝が天人世界の舞楽を見聞して作ったとされる曲です。中国の古典音楽としても残っていますが、それが日本へ来るとこのような形となって表れるのだなあとしみじみ感じ入りました。
そして天人の舞。私は能の中でも舞の場面が特に好きなのですが、この「羽衣」の舞は天人の舞だけあって心を強く惹きつけられました。できることならずっとずっと見ていたいと思わせるような美しさにうっとりしてしまったのです。

続いて「鐘の音」。シテを演じたのは野村万作さんで、この演目ではその芸を心ゆくまで楽しめました。仕草の一つひとつ、台詞の調子まで磨き抜かれた芸が光っていて、これが能を極めた人の演じる姿なのだと感じました。と同時に、鐘の擬音には思わず笑いがこぼれ、狂言の面白さを改めて知ることができたように思います。

そして最後に「殺生石」。実は去る五月十日に「朗読能シアター 殺生石」を聴きに行っていたので、今回こうして実際に能として「殺生石」を観られるのを楽しみにしていました。「朗読能シアター 殺生石」の方はまだ感想を書いていませんが、今回本物の能を観て改めて感じることがあったので、併せて書きたいと思います。

能「殺生石」では修行の旅の玄翁和尚が那須野の原へ着き、そこで殺生石という巨石にまつわる話を聞いて、石の精を成仏させるというのが一連の流れですが、「朗読能シアター 殺生石」ではその前日譚として、本来和尚の伴の口から語られる玉藻の前の物語を朗劇に復元し、それに天竺での物語を加えて朗読するという形でした。
実際の能を観てみると、「朗読能シアター」ではよくあの「語り」から「物語」を作り上げたなぁと感心しました。
解釈にも現代的な要素が加わっていて、能では石の精は悪心を捨てて成仏するのですが、「朗読能シアター」では、舞台が天竺でも日本でも、石の精の正体である「九尾の狐に惹かれる男」をオリジナルで設定し、九尾の狐も「光に焦がれる闇」として描かれていました。
そして「朗読能シアター」では玄翁和尚は九尾の狐に向かって「お前は闇にも光にもなれない。ありのままの自分を受け入れなさい」と説き(残念ながら台本を買っていないのでうろ覚えですが……未だに買わなかったことを後悔してます)、九尾の狐は自分を受け入れてくれる迎えの虹に向かって歩んでいくというラストシーンを迎えます。
これはとてもメッセージ性が強くて、惑いの道にいる私などはハッとさせられたものです。ありのままの自分を受け入れる。これが一番難しいことなのかもしれません。
でも、ありのままの自分を受け入れてくれる人がいて、初めて自分自身を受け入れられるのだとも解釈できるように思います。九尾の狐のそばには常に「男」がいたことを考えれば、周りの人の心に目を向けなさいというメッセージでもあるのかなと感じました。

さて本題に戻るとしましょう。能「殺生石」での見所は、やはり石の精が正体を現す場面。これが心に焼き付くほどの迫力で、業を負った獣の深い深い悲しみと怒りを目の当たりにしたような気がしました。
能というのはどれだけその世界に没入できるかで全然感じ方が違うのだと思います。音や台詞、衣装や面から立ち現れてくる世界を感じ取り、その中に自分の心を入り込ませる。それが能の楽しみ方なのではないかと、観能三回目にして初めて分かったような気がします。

「漢籍と日本人」展@天理ギャラリー

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本日、天理ギャラリーにて「漢籍と日本人」展を観てきました。
東洋史特講の課題の関連で行くことになったのですが、事前に展示目録を見ていたので楽しみにしていました。
同行した漢文学専攻の彼氏は今回の展示を見て私以上に喜んでいて、五山文学を学んでいるだけあって、五山版の本をいくつも見られて感無量だったようです。傍から見ていてもじっくり漢籍の世界に浸ってました。

私がかろうじて内容を読めたのは「長恨歌物語付き長恨歌」ぐらいでしたが(以前岩波文庫の『唐宋伝奇集』を読んでいたので)、江戸時代の官版の『玉台新詠』や直江版『文選六臣註』を見られて心湧き立ちました! 直江ってもちろんあの直江兼続ですよ。
玉台新詠の方は冒頭部だったので詩の部分は確認できなかったんですが、「班倢伃怨詩」の文字を見られて嬉しかったです。
(こちらも岩波文庫版の『玉台新詠』を持ってて、以前読んだ時に班倢伃そのものに惹かれたのを覚えています)
班倢伃を題材に扱った詩は、あの陸遜の末裔である陸機も詠んでいるようなので、文選をちゃんと読まねばなぁと思って早数ヶ月。

それから気になったのが吉田兼右筆『五行大義』。隋代に先秦から隋までの陰陽五行説を蒐集し体系的にまとめられた本で、中国では宋代以降に亡佚したのだとか。『続日本紀』では天平宝字元年の勅に陰陽生の必読書として挙げられたそうで、門外漢ながら内容が気になります。

図録も大変良心的な値段の割に、印刷もフルカラーで綺麗で、持っておく価値は充分あると思います。ギャラリー自体は無料で入れますので、興味がおありの方はぜひ。期間は6/15まで、会期中無休です。

ご近所散策

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久しぶりに母と川沿いに沿ってご近所を散歩してきました。薔薇の館と呼ぶにふさわしいようなお家があったり、子供連れの鴨たちや白鷺の子などが見られて楽しかったです。
普段の生活でなかなか自然に触れる機会がないので、東京での生活は(もう六年も経とうというのに)時々息が詰まりますが、こうしてふらっと出かけてみると身近なところに自然の美しさを感じることができますね。
ファミマで初めてテイクアウトのアイスカフェラテを買ったものの、勝手が分からず店員さんに手伝ってもらったり、小さいながらも雰囲気の良いパン屋さんでいくつかパンを買ったり、その後ベンチで母とパンを分けつつ、買った飲み物を飲んだりしてちょっとした思い出になりました。

蛇神にまつわる諸問題

「南山之下有不流水其中有 一大蛇九頭一尾不食余物但食唐鬼朝食三千暮食 急々如律令」
この場合の唐鬼とは当時流行していた天然痘を指す。
以前大学の日本古代史ゼミでこの木簡について発表したことがあったが、その時教授が「この一大蛇九頭一尾というのは八岐大蛇のことだ」とおっしゃっていた。八岐、つまり八つの股を持つ=頭が九つあるということらしい。(凍月庵 2014.02.08 )

先日ふと思い立って、袁珂『中国神話伝説大事典』( 大修館書店、1999年)で「南山」の項目を引いてみた。

【南山】
虫を「蛇」といい、蛇を「魚」という地域との境界をなす山。前漢代初期の『山海経』「海外南経」に「南山がその東南にある。この山から先では虫のことを「蛇」といい、蛇のことを「魚」とよぶ。ある本では「南山が匈結国の南東にある」になっている」とあり、西晋代の郭璞(276-324)が「虫を「蛇」といい、蛇を「魚」ということである」と注を付している。

ちなみに郭璞は私が好きな詩人なので、こんなところでお目にかかれて嬉しくなった。
先日ゼミ教授の元に相談に伺ってこの話をしたところ、推古紀に蛇を魚とみる話があるというお話を聞いたので早速日本古典文学全集の日本書紀で確認してみた。

是の年に、河辺臣を(名を闕(もら)せり。)安芸国に遣はして、船を造らしむ。山に至りて船材(ふねのき)を覓(ま)ぐ。便(すなは)ち好(よ)き材を得て、名ざして伐らむとす。時に人有りて曰く、「霹靂(かむとけ)の木なり。伐るべからず」といふ。河辺臣曰く、「其れ雷神(いかづちのかみ)なりと雖(いふと)も、豈(あに)皇(きみ)の命(みこと)に逆らはむや」といひて、多く幣帛(みてぐら)を祭(いはひまつ)りて、人夫(えのたみ)を遣りて伐らしむ。則ち大雨(ひさめ)ふりて、雷電(いかづちなりいなびかり)す。爰(ここ)に河辺臣剣案(つるぎのたかみとりしば)りて曰く、「雷神、人夫を犯すこと無(なか)れ。我が身を傷(やぶ)るべし」といひて、仰ぎて待つ。十余(とたびあまり)霹靂すと雖(いへど)も、河辺臣を犯すこと得ず。即ち少魚(いささけきうを)に化(な)りて、樹の枝(また)に挟れり。即ち魚(うを)を取りて焚(や)く。遂に其の船を修理(つく)りつ。
この年に、河辺臣を[名を欠く]安芸国に遣わして、船を造らせた。山に行って船の用材を探した。良い材木があったので、命じて伐ろうとした。その時ある人が、「雷神の憑りつく木です。伐ってはいけません」と言った。河辺臣は、「雷神といえども、どうして天皇の命令に逆らえよう」と言って、多くの幣帛を供えて祭り、人夫を遣ってその木を伐らせた。すると大雨が降って、雷鳴がとどろき、雷光が走った。そこで河辺臣は剣の柄を握って、「雷神よ、人夫を傷つけるな。我が身を傷つけよ」と言って、空を仰いで待った。十回あまり落雷したが、河辺臣を傷つけることはできなかった。そして小さな魚になって、樹の枝の間に挟まった。そこでその魚を取って焼いた。こうしてついにその船を造りあげた。

また先生のお話によれば、中国の伝説に出てくる皇帝・禹は元々少数民族のイ族で信仰されていた魚の形をした神だったのだとか。
禹といえば、数々の治水伝承が残されているけども、その中でも特に注目すべきなのが九頭の蛇である相柳を退治する話。以下、伊藤清司『中国の神話・伝説』(東方書店、1996年)より引用する。

共工の家来で相繇(そうよう)または相柳というものは頭が九つで、蛇の体をしており、とぐろを巻いている。食べ物は九つの土地で摂る。吐き出したもの、あるいは居すわっている場所はただちに沼沢になる。その水は苦く、そこには獣たちはまったく棲めない。
禹は大洪水を防ぎ、相繇を謀殺したが、流れ出した血は腥く、そこには穀物が育たない。また、その場所は水が多く、住むことができないので、禹はそこを土で三尋(約五メートル)の深さまで埋めたが、三度とも土地が陥没したので、池にしてしまった。
【作者不詳『山海経』大荒北経】

この伝説を読んで真っ先に思い浮かべるのは、やはりスサノヲによる八岐大蛇の退治伝承であろう。

「彼の目は、赤かがちの如くして、身一つに八つの頭・八つの尾有り。亦、其の身に蘿(ひかげ)と檜(ひ)・椙(すぎ)と生ひ、其の長さは谿(たに)八谷(やたに)・峡八尾(をやを)に渡りて、其の腹を見れば悉(ことごと)く常に血(ちあ)え爛れたり」
「その眼は赤かがちのようで、一つの身体に八つの頭と八つの尾があります。またその身体には日陰蔓と檜・杉が生え、その長さは谷八つ、山八つにわたっていて、その腹を見ると、どこにもみないつも血が流れ、ただれています」
【新編古典文学全集 古事記】


三浦佑之『口語訳古事記 神代篇』(文春文庫、2006年)の注釈によれば、

以下のヲロチの描写は肥の河(斐伊川)とその両岸の姿を写したものと考えられる(八つの頭と尾はいくつにも分かれた河口や支流のさまを、体に生えたコケや木は両岸のさまを、谷や尾根を渡る姿は蛇行する斐伊川の流れを、爛れて流れる血は崩れ落ちた両岸の山肌のさまを表し、赤い目はその妖怪性を強調する)。つまり、このヲロチは水の神として肥の川を象徴する自然神なのである。

とのこと。
相柳もまたそうした自然神であったと考えられる。それにしても元々魚の姿、つまり蛇神であった禹が、蛇の姿をした自然神を殺してしまうというのは面白い。そこには支配者としての神と、被支配者としての神の姿があるのだろう。この被支配者としての神の姿を追ってみるのも興味深いかもしれない。
それにしてもまた八岐大蛇に行き着いてしまった。蛇から離れようとしても離れられない、そんな蛇好きとしての業を思い知らされてしまう。蛇信仰の世界はまだまだ奥深い。
プロフィール

夕星桔梗

Author:夕星桔梗
元日本古代史ゼミ所属。作家志望のアマチュア物書き。

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